遠阪の歴史

NHK大河ドラマ鎌倉殿と13人「足立遠元ゆかりの地 丹波市青垣町山垣」

遠阪は古くから芦田、佐治、神楽で一つの生活圏を成し、佐治郷と呼ばれてきました。

そして、承元3年(1209年)、足立遠政が武蔵国足立郡(現在の埼玉県)から佐治荘に地頭として赴任してきました。

そして、青垣町山垣に山垣城を築き、天正 7 年(1579年)織田信長の丹波攻略の兵火による落城まで、12 代、370 年にわたって勢力を保持しました。足立遠元は、足立遠政の祖父にあたります。

足立遠元の供養塔

法恩寺の西の平地には、遠元と遠光の墓があります。足立遠元と足立遠光を祀る供養塔です。

天福寺

足立遠政が祖父(遠元)の菩提寺として建立した寺。 創建当時より位置も変わり、規模も小さくなった。

「丹波志」 中佐治村境にあり、古跡南北凡そ四町(約400m)、東西一町(約100m)斗り、東は大道(旧山陰道)限り、田の字は天福寺という。 住古寺数多しといえり、古跡二所にあり。住古中佐治村高につ き、検地替ある時、山垣村高減ることを好みて中佐治の地とい う。之によって天福寺古跡の内二丁(約 200m)斗りは中佐治村に 入る。今の境は西の山より出て東に流る溝川にて境。古跡北の 端、山垣の地に天福寺という小庵、別に観音堂二間四面、字白 石という所なり。

足立遠政の祖父 遠元の戒名 天福寺殿霊覚樹武節勇範大居士

〃 父 遠光の戒名 一山院仁叟道義大居士 遠政の戒名 報恩寺殿鎮山護国仁勇義隆大居士


足立遠政公碑文より


 公 元は武州足立郡遠元公の孫なり。しかして父は遠光公という。其の生む二男、久保田左衛門尉と称す。佐治荘を拝領し、承元三年 初めてこの地に来たる。城を築きここに居すること数代なり。天正七年に至り、第十二代弥三郎基助、遂に羽柴秀吉に攻略さる、然りといえども、その子孫五に分かれ、今尚繁栄す。近郷隣郡に亘り、同流館裔没すること、その数実に二千点に達す。如くは高原寺開山遠谿祖雄禅師も、また公の曽孫なり。そもそも丹波足立の姓は、公をもって始祖とす。当村既にその発祥の地なり、今七百十有六星霜に至り、公の墓碑厳然と存するといえどもしばしば兵乱に遭い、深く荊蒜に埋まり、久しく世に知られざる、これを遺憾とす。改祀を企てること有年、しかして今機熟すなり。広くその子孫を尋ね報資をあつめ、境地を改修す。もって尊厳をたもつ。別に基金を積み、永世供養し、後の子孫をしてその偉徳を敬慕しこれを参詣せしむことを期す。請いたのみ、謹んで草す。
大正十三年四月吉辰足立遠政は承元3年(1209)足立遠政が一族郎党とともに佐治郷の地頭として来住し、この地を本拠として城を築いた。遠坂、田の口、小和田、小倉、奥塩久、稲土に出城を置いて、天正 7年(1579)織田信長の丹波攻略の兵火による落城まで、12代、370 年にわたって勢力を保った。


『丹波志』より


萬歳山の南へ出たる山の尾端にあり。本丸平十間四方、南へ二の丸、二三の関に堀切あり。三の丸南に二筋堀切あり。南の
平凡そ十間四方。本丸より北に並び凡そ十間四方の平を加兵衛殿段という。本丸西へ下る中場に古池跡あり、水あり。西南の
裾に凡そ十間四方の段あり。本丸西の麓に送る手中門跡あり。
是より一丁余西に四辻あり。これを総門古跡、字は惣門という。本丸より西川迄追手の道今あり。中の道なり。麓より本丸迄上
る道、凡そ一軒計り、是を山垣ノ城という。西の麓に鎮守堂あり。中古報恩寺境内へ強く。今鎮守屋敷と字す。
古城主は鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政、氷上郡佐治郷を領す、居城とす。天正の前は足立坂本足立伯耆守、二代は彦助政
基。明智光秀に攻められ落つといえり。謂れは秀吉丹波下られ、軍勢を足立に催促の来ども時後れたる故行かず。佐治郷内足立
子孫の者共一揆して明智に随わず、之によって光秀佐治郷南口に来り、足立氏の面々向後所下着に随うべき由、高札を立つる。
足立一党没落す。後彦助を山垣殿という。城山の根に遠政の塚二尺五寸ばかりの五輪あり。谷川の西田の中に彦助夫婦の塚あ
り、山垣殿という。城山の西に先祖の持庵、今公儀帳付なり。近年は古跡となる。本尊は本家加右衛門にあり。同西の麓に子
孫本家足立加右衛門住む。佐治郷より所々に子孫ありといえども嫡伝本家は比家なり。


足立遠政の墓

報恩寺

足立遠政公の菩提寺(もと浄土真宗であったが遠谿禅師以来 臨済宗になった。)洛西花園妙心寺末、本尊は薬師如来である。 住古城主久保田左衛門尉遠政の開基、萬歳山の頂にあった。天 正七年(1579 年)に羽柴秀長の兵火にかかり焼亡、今のころ に引き移す。古跡に礎がある。平にして凡そ二十四方、字は古 家敷という。尾根続き五丁計北に鐘楼の跡(四個の土台石が現 存)あり、鐘楼の段という。 高原寺を開基した遠谿祖雄は、足立遠政の孫光基の三男で十 九歳の時に報恩寺を出家し、後に中国の天目山で普應国師の下 で修行して、印証を受け帰国して高原寺の開祖となった。 報恩寺の本堂は、天正七年の丹波攻めによって全焼し、続い て天和三年(1683)安永元年(1772)亨和三年(1803)と四 回も火難にあっている。文化元年(1804)に八世清州和尚の 代に復興された。

 

山垣城跡

『丹波志』より 萬歳山の南へ出たる山の尾端にあり。本丸平十間四方、南へ 二の丸、二三の関に堀切あり。三の丸南に二筋堀切あり。南の 平凡そ十間四方。本丸より北に並び凡そ十間四方の平を加兵衛 殿段という。本丸西へ下る中場に古池跡あり、水あり。西南の 裾に凡そ十間四方の段あり。本丸西の麓に送る手中門跡あり。 是より一丁余西に四辻あり。これを総門古跡、字は惣門という。 本丸より西川迄追手の道今あり。中の道なり。麓より本丸迄上 る道、凡そ一軒計り、是を山垣ノ城という。西の麓に鎮守堂あ り。中古報恩寺境内へ強く。今鎮守屋敷と字す。 古城主は鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政、氷上郡佐治郷を領 す、居城とす。天正の前は足立坂本足立伯耆守、二代は彦助政 基。明智光秀に攻められ落つといえり。謂れは秀吉丹波下られ、 軍勢を足立に催促の来ども時後れたる故行かず。佐治郷内足立 子孫の者共一揆して明智に随わず、之によって光秀佐治郷南口 に来り、足立氏の面々向後所下着に随うべき由、高札を立つる。 足立一党没落す。後彦助を山垣殿という。城山の根に遠政の塚 二尺五寸ばかりの五輪あり。谷川の西田の中に彦助夫婦の塚あ り、山垣殿という。城山の西に先祖の持庵、今公儀帳付なり。 近年は古跡となる。本尊は本家加右衛門にあり。同西の麓に子 孫本家足立加右衛門住む。佐治郷より所々に子孫ありといえど も嫡伝本家は比家なり